山の彼方の幸せ求め・・・

カテゴリ:山の彼方の空遠く( 13 )

ボケたらどうしよう

此処に越してきて1年と少々。
幻覚を見ないようになった、墓参りをしないのは、遺骨が僕の手元にあるからだ。

以前妻と暮らした家を離れる時は、少し抵抗があった。
何故かと云えば、玄関を開けた時に妻の『お帰り〜』の声が聞けなくなると思ったからだ。
妻はよくできた女だった、僕の物欲を優先させていた、物欲と云っても物が欲しい訳じゃなくって
旅をしたかった、妻に「何処かへ行こうよ」と云うと妻は温泉地とかを探し出す。
白浜ぐらいは近過ぎると云うのは妻の方で、片道400Kmを超えないと旅とは思わないようだった。

その妻が恐れてたのはボケる事だった、そして寝たきりや要介護はごめんだとも言った。
介護は僕がするから遠慮なくなっていいよと伝えたが、どう受け取っただろう。

独り住まいを初めて3年程が経過し、この先、ボケ、痴呆が来たら僕は楽かもしれない。
だが娘や息子は困るだろう、慌てるだろう、そして誰が引き取るかで揉めるかもしれない。
そんな揉め事をさせないためにも、いつまでも元気で居らねばならない。
そして或る日、突然にお迎えが来るってのが望ましい。

物忘れが少々増えたようだが、え〜っとと云う相手が居ないのはボケないで済むかもしれない。
昔から僕はメモを取らない、営業日誌は書いてたが、それはお得意先との諍い(いさかい)を防ぐためで
あって、後で言った言わないを防止するために、お客様の前で書き込み、時にサインを貰う。

金銭の動きなど、頭に入れてたが法人にし社員が増えるとそうも行かず、妻に雑多な仕事を以来していた。
仕事を辞め、日々ホケ〜っと暮らしているからボケが早いかもしれないと最近危惧している。

娘や息子へ、ボケたらごめんね。そうなったら捨てても良いよ、名前が判らないようにして、大阪を離し、富士の樹海などへ水だけ持たせてくれれば良い。
そうなったら、多分ターザンのようになるだろう。 アッアア〜    (何か暗いなぁ〜)
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by kattyan60 | 2005-06-10 01:00 | 山の彼方の空遠く

ワーイ 行きずりの彼の女にキスされてしまった、何年ぶりだろうか。お連れの人も止めずに笑って見てるなよな!! ドキドキ 別れしなに彼女が叫んだのは何よ・・・ワン
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by kattyan60 | 2005-02-26 21:30 | 山の彼方の空遠く

後ろの山の彼方の空遠く

また暗いとお叱りを受けるといけません。
こちらに越して来て大雑把には片付けたものの、まだ整理が付いていないものも多くて、今日は家事に専念するぞと心に鉢巻きをしたまでは良かったのです。

洗濯機に下着7枚と靴下(1週間分)を入れました、アンダーシャツは襟を下洗いしてタオル類と洗濯しパジャマを数点を洗い終わって、今、休憩に入ったところです。
日も落ちてしまったけれど、干してしまわなきゃ。
こんな時には音楽が流れていると家事もそう嫌でないんです。
今日は、[イーグルス]のDVD(USAの友人から貰っちゃた)を見ながら聴きながらです。
[ホテル・カリフォニア]になるとつい体が動いちゃいます。名曲ですなぁ〜
[うん/ この箱は何じゃったかな?]中を見るとでございます。

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僕の家族が幸せだったころのアルバムが出てきました。
左端のチビは現在34歳真ん中のが36歳で2(4)人の子持ち、右端のは若き日の妻、みっちゃんでございます。横幅といいどっしりとして母の貫禄を呈していますでしょ/ 
この頃の僕は43Kgで僕のジーンズが入らないと怒っていたんですよ。
こんな写真を見ても泣かないもんね〜 さぁ洗濯の続きをやってしまいましょう。
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by kattyan60 | 2005-02-25 18:36 | 山の彼方の空遠く

此処は僕の家だったんだよ

時は流れ、住む人も代わり、風景すらも変わってしまっている。
そこには過去の想い出さえも霞みがちなのが寂しい。
いつだったかそこを訪ねた。

僕が育った家は無くなり、そこは駐車場になっていた。
その駐車場の一角に立ち、ここが義父の座ってたところ、ここがお母ちゃんの場所、
そしてここは僕の座ったところだったと、その時家の中がありありと思い出された。
座って給仕をするお母ちゃんもそこに居る、仏頂面をしてコップで酒を飲んでる義父もそこに居る、ラジオから舞鶴港へ到着した戦地よりの帰国者名簿が読み上げられている。
僕は最後の芋粥を食べてしまい茶碗を舐めていた、今ならお行儀が悪いでしょと嗜(たしな)めるところだが当時はそれを許した程食料が不足していた。
畑だった処にはサトウキビやトウモロコシが植わり、地にはナンキン(かぼちゃ)が実を結んでいた、そこにも家が建ち生活が始っていて、その家の子供達も僕と同じように思い出す時がきっと来るんだろう。 そこの君、元気かい?
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by kattyan60 | 2005-02-05 23:12 | 山の彼方の空遠く

盗人

僕の通う小学校の生徒は貧富の差が大きく、[ええし](金持ち)の子が多かった。
貧しい家庭だった僕の義父は襖の引き手を作る職人で自営をしていたようだ、お母ちゃんが嫁いだ頃は先妻さんが亡くなり、嫁に出た娘と中学生息子を育てるのが困難だった事と僕を抱えて経済的に困窮してたお母ちゃんの双方の利益が合致したんでしょう。
だけどその問題は解決したものの、夫婦の関係は上手く行ってなかったようでした。
今も鮮明に覚えているのは或る日、義父が銭湯へ行く代金が無いと騒ぎだし、外から帰ってきた僕の首を捕まえて『お前が盗ったんやろ、そんな事をするのは わしの子やないからや』と紐で縛り鴨居にぶら下げられちゃったんですね、その時から縛られるのが好きになっちゃた、嘘よ
お母ちゃんは義父の座る付近を捜し、座布団の下から出てきたのを義父の鼻面に出し、黙って僕を降ろしてくれたんです、義父は謝らず黙って銭湯へと行ったんです。
お母ちゃんは僕を抱きしめて小さい声で『ごめんね、ごめんね』と云いい続けてました。
その日から僕は義父を無視するようになったんです。
今、義父は気の毒な人だと思います、先妻さんが亡くなり実の息子はグレてしまい、娘は離婚してしまうし、自営も上手くいかずに兄弟子の会社へ勤務するもののそこも時代の流れで倒産するし、晩年には後妻(母)は家を出てしまった。
それは自分で作った部分でもあるんだが気の毒だとしか思えない晩年だった。
自分の過去を記することを嫌う人も居られるようだが、僕はそれを公表することで今暴力を振るってる旦那に反省を促し、良い人生にする事も自分の少しの努力で出来るのだと知って欲しいのです。
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by kattyan60 | 2005-02-05 21:04 | 山の彼方の空遠く

別離の辛さから立ち直れる

それは僕の体にエネルギーが漲って(みなぎって)いた頃でございましょうか。
肌にも艶があり、その肌は筋肉に添い筋肉と皮膚の間には何もなかったのでございます。
親友の父上が経営する会社へ20歳で就職し実家を離れて独身寮に入り、週末には母の待つ家に帰り、1日母と過ごしたんでございます。
母は義父と別居し、母の弟の家で晩年を過ごしていたのでございます。
その母と日曜日を過ごすことが当時の女友達と過ごすより僕には楽しかったのでございます。
叔父は妻と別居し愛人と裸一貫で大阪へ来て、一軒の家を構えるまで頑張ったのでございます。
母が亡くなって、叔父との交流も少し遠退いていたんですが数年前に亡くなり、その家を養子縁組していた子供が相続を拒否したから話しがややこしくなり、僕が相続することになってしまったのでございます。
岡山に住む姉達二人も相続を拒否してしまい、僕も面倒は苦手ですので困ったことでございます。
叔父の家とは歌ではないですが名ばかりの小さな地に小さな窓と小さなドアの小さな家がポツンと建っているのでございます。
ところがその地を売却して欲しいと電話があって、聞いてみるとそこが新興住宅地に隣接するので、いっそ買い取りもう数軒を建てようと考えたようでございます。
それをお断りして今放置しているのでございます。

人生を長く生きてくると、楽しい事もたくさんある代わりに悲しい事も多少はやってくるものでございます。
最高に嬉しい事であっても悲しい事の辛さの比ではありません。
それは人にもよりますが、人生を狂わせる事にもなりましょう。
そんな時、悲しみに打ちひしがれるのは簡単なのでございます。
そうする事で自分も周囲も納得できるのではないでしょうか。
僅かな月日で立ち直ることは難しいのでございますが、必ずや癒される日が来る事は
間違いのないことでございます。
そんな辛い日が来たらじ〜っと時が過ぎるのを待つ事が最良の策だと考えます。
ただ、その時は思いを迸らせ(ほとばしらせ)る方法として僕はパソコンに日記を書き、天国の妻へ手紙を書いたのでございます、それも大量に。
それらは最近破棄しました、妻の想い出と決別することは出来ませんが、人生再出発
と考えを変えることができました。
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by kattyan60 | 2005-01-27 00:30 | 山の彼方の空遠く

僕は幸せ真っ盛り?

今日、新しいBlogの方へ訪問致しました。
奥様を亡くされた方でした。
全文、読ませていただきましたが、とても僕の及ぶところではない。
ず〜〜っと大人の方でした。
ボランティアに参加されて、再就職もされて立派な方です。
そこへ行くと、僕は日々遊び惚(ほう)けています。
ボランティだって昔はボーイ・スカウトを数年間させていただきましたが、ボランティアっていうより、自分の楽しみでしたから、ボランティアというにはおこがましいってもんです。

定年後、持て余す時間をどう過ごすか?
これは、会社人間や仕事に没頭した真面目な方が定年と同時に老け込むそうだが、僕は
そうはならないぞと妻とも話し、計画もしたもんだった。
ところが、妻が先に逝っちゃったら 計画してたことも全ては放棄する訳だから、パニックにならない方がおかしいでしょう。

その日、僕は泣きました、その翌日まで徹夜で泣きました、出されたご飯を食べながら泣きました、トイレに座って用を足しながら泣きました、お風呂へ入っても泣きました。
他のことは何も覚えていないくらい泣きました。
涙が無くなりました。

女友達ができました。
笑顔が出てきました。
泣くより笑う方が多くなりました。
一年に一度くらいは泣かないと申し訳ないなぁと思う日がきました。
どん底だと思った日もありました。
[山の彼方の空遠く幸い住むと人のいう・・・・]実感しています。
同じか、または どん底だと思う人達、僕に続け〜
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by kattyan60 | 2004-12-15 01:35 | 山の彼方の空遠く

幸せを求めて

第三待降節の日曜日-小さな教会での音楽会-

ma_cocotteさんの記事。
[祭壇真ん中の右には工務店経営のヨゼフさん,左には弱冠15歳のマリアさん,二人の間にはなぜか花束。待降節の間,草葉桶の幼子イエズスは祭壇に置きません。]

仏教でも、お釈迦さんを像とするようになったのは後期だそうで、それまでは車輪のような
もので象徴したようです。
像を描いたり、彫ったりするのは あまりに恐れ多いというのがその理由のようです。

僕には無神論者です と断言できる知識がないのです、かと云って信じるにはあまりに
その種類宗派が多く選択に難しい。
だから僕が選択に悩んだ時は[お袋大明神]なんて勝手にお願いしてましたが、これからはきっと[みっちゃん大明神]に宗旨替えすることでしょう。
それほど希薄な宗教心ですが古い仏像や歴史などを知り見るのは好きなのです。
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by kattyan60 | 2004-12-14 13:33 | 山の彼方の空遠く

山の彼方の空遠く、幸い住むと人の云う

この世に生命(いのち)を受けて60年
多くの幸せも、多くの不幸と思う事も体験して思うこと。

山の彼方(あなた)の空遠く、幸い住むと人のいう。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ
山の彼方になお遠く、幸い住むと人のいう
 (カール・ブッセ作  上田敏訳)

この詩に涙した時は不幸せ。

この詩を感じた時は不幸せ。

この詩を思い出した時は不幸せ。

一杯涙を流し、涙が枯れたとき、また新たな元気が出てくると信じて
今夜も涙を流そう。

山の彼方の幸せを信じて今宵も涙を流そう。
その人の暖かみが伝わる安心を心に思い描いて、今宵も涙を流そう。
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by kattyan60 | 2004-11-27 03:41 | 山の彼方の空遠く

色にも名前

日本には数限りなく色に名前を付けている。
浅葱色=葱(ねぎ)の浅い色
緋   色=鮮やかでなく、重厚な赤
留袖(結婚などの祝いごとに着る)黒は白地に一度赤く、紅色に染めてから黒を
染めるので[紅下]と云う。

その他、着物の染め物や呉服に関わる人なら、その名前と色が一致することでしょう。
僕が20前後の頃、呉服商の叔父の家で働いたことがある。

当時から掃除が好きで、トイレと玄関は入念に磨きあげて叔父や叔母から喜ばれた。
叔父は僕の義父の末弟だけど、頭の良い人だった。
呉服を車に積んで行商に行く、固定のお客さんばかりだった。
叔父の荷物を積んで僕が運転する。
お客さんの家に着くと、荷物を持って応接に通り、呉服を広げ薦める叔父の言葉を
時に書き留める。
後日出来上がった着物を届けるのは僕の役目。
或る日、日本舞踊の師匠の家にいつもと同じように届けると『ちょっと待ってね』と言い
着物を[衣紋掛け](えもんかけ)に吊るして検査されている。
奥へ入った師匠が戻ってきて、いきなり鋏で切り刻んだ着物。
僕は血の気が引いた、 代金は払いますと云う。
飛んで帰って顛末を話すと、叔父はズボンを穿いて出掛けて行った。

還ってきた叔父は、同じ物を誂えるべく染め物屋さんに電話をかけた。
叔母は、仕立てをした人に苦情の電話をかけた。
1月程して染め上がった反物を別の仕立て屋さんに運んで、丁寧に仕上げるよう、
裾に袋(裏地の八掛けが弛む事)が入らないように頼んだ。
師匠の家に菓子折りと一緒に届けると師匠はご機嫌が良くて僕に昼食をご馳走して
くれたが、緊張で何を食べたのか覚えていない。(女は怖いと思った)

反物を広げて横を1寸(呉服はくじら尺で3、3cm)程。親指と人差し指で挿んで
一定の早さで扱く(しごく)とピーっと鳴る、その音で縦に走る糸の本数を計る。

裏地は胴裏と八掛けで出来ている、裾に八掛け お腹の辺りから胴裏となる、
その胴裏の良否は目方で決まる。
今風に云えばパチモノは糊を効かせて増量する、それで、端を摘んでゴシゴシ揉んで
からパンパンと叩くと粉が飛ぶ、その舞い上がった煙状のもので糊の量を量る。

反物をお客様に当てる時、広襟に畳んで首から下げる、そして上前と下を手で扱く
その時にお客様の胸に手が当たる。
二十歳の僕は、それが恥ずかしくて少し浮かせて扱く、それを知ってか水商売のお方は
下着を着けずに立ち、僕の手を取って胸に押さえてクスクスと笑う。(女は怖いと思った)

夕方になると玄関の鍵をかける、高価な商品があるから用心のために鍵をかける。
叔父の家で寝泊まりしていた僕も外へ出る事なく、部屋でギターを弾いていた。
その頃の僕は同年の友達と呼べる女性と接することなく、まだ子供のままだった。

いつものように、行商に行く車の中で、叔父は会社にしようと思うそして還って来る息子と
二人でやって欲しいと云った。
息子は従兄弟で僕より2歳上の心優しい人だった。

一人で行商に行くようになり、お客さんの顔を思い出して反物を準備した。
その反物が売れ残ると展示会の時に、特価として提出する。

呉服商の店員を全て番頭さんと呼ぶが、僕はkattyanと呼ばれていた。
叔父も叔母も問屋さんも染物屋さんも仕立て屋さんもお客さんも、そう呼んだ。

僕の義父は僕を[カチ]と呼んだ。
悪い人じゃないが深く考えられなかった人だったように思う。
お母ちゃんは僕を41歳で産んだ、昭和19年の1月1日にである。
でも、1日は良過ぎて悪いからと4日にしたと大きくなってから聞いた。
全国で祝って旗を揚げるのに4日だと旗を納めてしまうではないか/
だから、僕は心の中で1日だと考えている。

日本は戦争で大変な時にも国家のためと励んでくれたから、今の僕が居る。
今は居ない両親に感謝している。無条件で感謝している、それ程幸せだったと
思う人生であった、これからも・・・・・・
(毎度ながら長い文章だなぁ〜)
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by kattyan60 | 2004-11-20 00:45 | 山の彼方の空遠く



ヨーガをするショコラ君