鉄の心とガラスの心
僕はガラスの心を持っていた、誰も信じてくれない?
はい、確かにそれは昔の若い頃の事なんです。 義父は明治の職人だったからでしょうか、人付き合いの不器用な人で義理の息子である僕だけでなく、実の息子にも愛を表現できなくて、実の息子は中学校でグレてしまったのです。 そんな兄貴を高槻だったと思う少年院に、お母ちゃんと面会に何度も行きました。 だが、義父は一度も行かなかったんです。 兄貴は、その時の事をいつまでも愚痴ってました、その兄貴が父の葬式の時には立派に喪主を勤めたんです。 そして20年程前になりましょうか、脳梗塞であっけなく世を去ったんです。 その兄貴に三千枝と云う姉が居て、二人の子供を設けて離婚し、そんな娘を不憫に思い義父は休みの度に訪ねて応援していたそうなんです。 その姉は正月には帰ってきて、それはそれは賑やかなお正月だったんです。 だけど、その分お母ちゃんは忙しかったろうと思うのです。 当時は洗濯機も炊飯機も冷蔵庫も各家庭に揃うには数年の時が必要だったんです。 義父が洗濯機を買ったのは僕が中学生の時でした。 テレビが家に来たのは僕が18歳だったでしょうか、交通事故で入院し退院して養生して居るときに買ってくれたんです。 そうそう、僕が入院している6ケ月間に見舞いにきたのは1度だけです。 お母ちゃんは週に一度、遠い病院まで電車を乗り継ぎ、洗濯物を交換に来てくれてたのです。 今思えば、この義父はガラスの心を持ったまま老いてしまった人だと理解できます。 義父の晩年に、結婚して間もない我が家に車に乗せて連れてきたんです。 そして娘を抱いた時は見た事もない優しい目をしていたんです。 そして食事を一緒にという、みっちゃんの誘いを断って送ってくれと言ったのが最後の言葉となったのです。 そして愚痴ってた兄貴も僕の前では偉そうにしてたけど、優柔不断で親父同様職人で終ってしまいました。 この兄貴も母親を亡くし、継母が来て優しくされればされる程、反抗したんだと晩年に告白し、母やお前に悪かったと回想し後悔したんです。 やっぱり兄貴もシャイでガラスの心を持った人だったんです。 妻のみっちゃんはと申しますと、子供時代の不遇な環境で、それがどれ程子供だったみっちゃんの心を傷付けたことだろう、傍にいて僕程彼女の事を理解していたものは居ないだろうと自負している。 そんな環境でそだったみっちゃんの心はワイングラスのように繊細で脆かったんです。 次に今の僕です、そりゃぁ〜もう頑丈であります、少々の事では動じません。 僕の娘も色んな経験をしてきましたから、現在頑丈になりつつあるってとこでしょうか? 息子、我が家で一番、彼が幸せだったろうと思うのです、それだけに母の死を受け止めるのに時間が懸かったろうと・・・・・ 以外や以外、僕より早く立ち直ってバイクでのツーリングに誘ってくれたんです。 僕達親子が絆をしっかりできたのは、妻であり母の死という嬉しからぬ時を共有したからではないでしょうか。 まだまだ、ガラスの心を持ってる娘よ、そして息子よ生涯幸せであってくれよ。 強い心を持ったかっちゃんはここで思った、お風呂に入ろ〜っと
by kattyan60
| 2006-02-02 22:29
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