言葉の持つ功罪
ええ話し
昨日、シアトルから帰国しているサリーと言葉について話した。 日本語のボキャブラリーの多さに比べ、英語のそれがあまりにも少な過ぎる。 僕に始まり、死語となってはいても[麿]も自分を表現していて、それを使う時は冗談であるよと云う事や相手との関係すら限定されている事が条件となる。 世の中が忙しく煩雑になった現在の都会では、季節と天気と健康の挨拶を交わし、耐震偽装、ライブドア・ショックなど話題に困る事はない。 そんな中で、良い関係を維持していく努力を惜しまずに複数の相手と友達で居続けるにも、言葉は重要なツールである事は間違いない。 言葉の大切さをクドクドと書くまでもなく、周知の事のはずだけど、時折輝く言葉に出会う。 ↑この記事に書かれている悦話も今回、僕の胸をノッキングしたのです。 友へ [君、心病む事なかれ、知恵ある人は総てを知り、神ぞ知るところとなるであろう] エッヘヘヘ、生言っちゃいました。
by kattyan60
| 2006-01-27 11:47
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