山の彼方の幸せ求め・・・

色にも名前

日本には数限りなく色に名前を付けている。
浅葱色=葱(ねぎ)の浅い色
緋   色=鮮やかでなく、重厚な赤
留袖(結婚などの祝いごとに着る)黒は白地に一度赤く、紅色に染めてから黒を
染めるので[紅下]と云う。

その他、着物の染め物や呉服に関わる人なら、その名前と色が一致することでしょう。
僕が20前後の頃、呉服商の叔父の家で働いたことがある。

当時から掃除が好きで、トイレと玄関は入念に磨きあげて叔父や叔母から喜ばれた。
叔父は僕の義父の末弟だけど、頭の良い人だった。
呉服を車に積んで行商に行く、固定のお客さんばかりだった。
叔父の荷物を積んで僕が運転する。
お客さんの家に着くと、荷物を持って応接に通り、呉服を広げ薦める叔父の言葉を
時に書き留める。
後日出来上がった着物を届けるのは僕の役目。
或る日、日本舞踊の師匠の家にいつもと同じように届けると『ちょっと待ってね』と言い
着物を[衣紋掛け](えもんかけ)に吊るして検査されている。
奥へ入った師匠が戻ってきて、いきなり鋏で切り刻んだ着物。
僕は血の気が引いた、 代金は払いますと云う。
飛んで帰って顛末を話すと、叔父はズボンを穿いて出掛けて行った。

還ってきた叔父は、同じ物を誂えるべく染め物屋さんに電話をかけた。
叔母は、仕立てをした人に苦情の電話をかけた。
1月程して染め上がった反物を別の仕立て屋さんに運んで、丁寧に仕上げるよう、
裾に袋(裏地の八掛けが弛む事)が入らないように頼んだ。
師匠の家に菓子折りと一緒に届けると師匠はご機嫌が良くて僕に昼食をご馳走して
くれたが、緊張で何を食べたのか覚えていない。(女は怖いと思った)

反物を広げて横を1寸(呉服はくじら尺で3、3cm)程。親指と人差し指で挿んで
一定の早さで扱く(しごく)とピーっと鳴る、その音で縦に走る糸の本数を計る。

裏地は胴裏と八掛けで出来ている、裾に八掛け お腹の辺りから胴裏となる、
その胴裏の良否は目方で決まる。
今風に云えばパチモノは糊を効かせて増量する、それで、端を摘んでゴシゴシ揉んで
からパンパンと叩くと粉が飛ぶ、その舞い上がった煙状のもので糊の量を量る。

反物をお客様に当てる時、広襟に畳んで首から下げる、そして上前と下を手で扱く
その時にお客様の胸に手が当たる。
二十歳の僕は、それが恥ずかしくて少し浮かせて扱く、それを知ってか水商売のお方は
下着を着けずに立ち、僕の手を取って胸に押さえてクスクスと笑う。(女は怖いと思った)

夕方になると玄関の鍵をかける、高価な商品があるから用心のために鍵をかける。
叔父の家で寝泊まりしていた僕も外へ出る事なく、部屋でギターを弾いていた。
その頃の僕は同年の友達と呼べる女性と接することなく、まだ子供のままだった。

いつものように、行商に行く車の中で、叔父は会社にしようと思うそして還って来る息子と
二人でやって欲しいと云った。
息子は従兄弟で僕より2歳上の心優しい人だった。

一人で行商に行くようになり、お客さんの顔を思い出して反物を準備した。
その反物が売れ残ると展示会の時に、特価として提出する。

呉服商の店員を全て番頭さんと呼ぶが、僕はkattyanと呼ばれていた。
叔父も叔母も問屋さんも染物屋さんも仕立て屋さんもお客さんも、そう呼んだ。

僕の義父は僕を[カチ]と呼んだ。
悪い人じゃないが深く考えられなかった人だったように思う。
お母ちゃんは僕を41歳で産んだ、昭和19年の1月1日にである。
でも、1日は良過ぎて悪いからと4日にしたと大きくなってから聞いた。
全国で祝って旗を揚げるのに4日だと旗を納めてしまうではないか/
だから、僕は心の中で1日だと考えている。

日本は戦争で大変な時にも国家のためと励んでくれたから、今の僕が居る。
今は居ない両親に感謝している。無条件で感謝している、それ程幸せだったと
思う人生であった、これからも・・・・・・
(毎度ながら長い文章だなぁ〜)
[PR]
by kattyan60 | 2004-11-20 00:45 | 山の彼方の空遠く
<< 家内への鎮魂歌3 スタディ アメリカン・イングリッシュ >>



ヨーガをするショコラ君
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31